大判例

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東京地方裁判所 昭和31年(レ)59号 判決

控訴人 野村秀三郎

被控訴人 新井博

主文

1、本件控訴を棄却する。

2、控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

控訴人は「原判決を取り消す。被控訴人は控訴人に対して金一〇万円及びこれに対する昭和三〇年三月三日より支払ずみまで年五分の割合による金員の支払をせよ。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決並びに仮執行の宣言を求め、被控訴代理人は「控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも控訴人の負担とする。」との判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張並びに証拠の提出、援用、認否は原判決事実摘示の通りであるから、ここにこれを引用する。

理由

一、控訴人が昭和二八年八月二〇日被控訴人に面部を殴打され、鼻根打撲傷、眼瞼裂傷、角膜擦過傷を負い急性結膜炎をも惹起し、同年九月三〇日まで四〇余日医師の治療をうけたことによつて生じた損害の賠償を求めるため、被控訴人を被告としてその不法行為責任を追及し、東京中野簡易裁判所に民事訴訟を提起したこと、右訴訟において被告(本件被控訴人、以下単に新井ともいう)は答弁書で新井が原告(本件控訴人、以下単に野村ともいう)を殴打したのは野村が訴外山木孝子及び同山木節に暴行を加えるので、右節の娘民子と婚約の間柄にある新井として黙過するに忍びず、野村の右暴行を阻止するためやむを得ず行つたものである旨述べたこと、右訴訟の控訴審において新井は昭和二九年四月二七日付準備書面で、野村が病人の山木節に対し冷酷にも泥水を頭から浴せかける如きは許すことのできない不法行為である旨述べたこと、又右控訴審において新井は反訴を提起し、野村の不同意により右反訴を取り下げたが、右反訴状で野村の山木節に対する暴行をくりかえしてのべたことは当事者間に争がなく、成立に争のない甲第一号証の答弁書記載中関係部分を詳記すれば、

「訴外山木節の三女孝子は井戸端で布製のサンダルを洗つていたところ、原告が右孝子に対し、右サンダルを洗うことを止めよと強硬に申入れ、子供の孝子が戸惑いしていると、原告は突然孝子の使用しているバケツを取上げ、孝子を突き飛ばした。孝子は悲鳴を上げた。その悲鳴を聞いて孝子の母節が現場に飛び出して行つたところ、原告は右節に対し、バケツの泥水を頭から浴せかけた。孝子は当年十二歳の子供であり、右原告の暴行に対し防衛をなす能力なく、又、その母節は昭和十九年、左腎結核にて左腎剔出術を施行し、現在結核性膀胱炎を患ひ病弱の身である。被告は右節の長女民子と婚約の間柄にあり、近く節等と姻戚関係に入るものである。被告は原告の孝子及節に対する不法にして急迫なる暴行に対し、之を阻止し得る(而も防衛すべき立場にある)唯一人の現場に居合せた者である。被告は原告の重なる不法行為(暴行)から、前記孝子等を防禦する為に、真に止むことを得ず、原告の頬を一回拳を以つて殴打した。」

のとおりで、成立に争のない甲第八号証反訴状記載中関係部分を詳記すれば、

昭和二十八年八月二十日、訴外山木節の三女孝子(当十二歳)がその居住せる家屋の外の井戸でサンダルを洗つていた処、反訴被告が突然其処は食器を洗うからやめろと怒鳴りつけた。幼少の孝子は只おろおろしていた、すると反訴被告はいきなり孝子のバケツを取り上げてつきとばした。孝子が悲鳴をあげたので、その声を聞いた前記節が洗い終るばかりになつていたサンダルを孝子から受取つた。すると反訴被告は矢庭にバケツの泥水を右節の頭からあびせかけてずぶ濡れにした。

前記節は昭和十九年以来結核性膀胱炎を患ひ左腎剔出手術を施行し当時安静の上加療を必要とする病身であつた。反訴被告の右暴行により、前記節の病状が急変悪化し、同年九月二九日膀胱出血部の電気凝固術を施行し約十日間病臥していた。更に翌昭和二九年二月十一日迄の間右病気治療のために勤務先である安部学園を欠席十二日遅刻又は早退二九日を取り東大病院に通院しなければならなかつた。」

のとおりである。

二、成立に争のない甲第四、七、九、一四号証によれば、右東京中野簡易裁判所の判決は野村の勝訴に帰したが、新井はこれに対し東京地方裁判所に控訴し、昭和二九年四月二八日の新井本人尋問で、野村が山木孝子を突きとばしたことはその母節からきいたこと、右節は野村から水二升五合位を体の前面にかけられ、同時に突きとばされて倒れかかつたことを知つている旨供述したこと、右控訴審の判決理由中には、新井の暴行は野村が山木孝子をつきとばしたことに起因すると主張するけれども、この点に関する当該審証人山本節の証言及び新井本人尋問の結果は共に措信しがたいとの記載があり、結局「新井は野村に対して金二〇、七三〇円及びこれに対する昭和二八年一〇月八日から支払ずみまで年五分の損害金を支払え。野村はその余の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審共新井の負担とする。本判決は野村において金四、〇〇〇円の担保を供するときは仮に執行することができる。」旨の判決がなされたこと、この判決に対しても新井は東京高等裁判所に上告したが、昭和三〇年六月二四日上告棄却の判決があつて右事件は確定したことが認められる。

三、控訴人は被控訴人が右訴訟の第一、二審に際し述べた控訴人の暴行に関する事実はすべて虚偽であり、被控訴人は公開の法廷においてかかる虚偽の事実を述べて控訴人を中傷し、その名誉を毀損したと主張するからこの点につき検討する。

思うに民事訴訟の攻撃防禦上といえどもみだりに他人の名誉を害する言動があつてはならないことは、まことに控訴人の主張のとおりであつて、たまたま一部の外国におけるように当事者の訴訟手続上の行為については名誉毀損の成立しないとする慣例が確立しているとか、例えば国会議員における憲法第五一条のような免責の特別規定があればともかく、特に従来の慣行も規定もない我が現行法の解釈としては、場合により名誉毀損の不法行為を構成し、民法第七〇九条以下の法条に照して判断すべきであるといわざるを得ず、攻撃防禦方法はそれ自身訴訟上の目的を有するとしても右判断を妨げることはできない。

しかし、また、現行の弁論主義、当事者主義を基調として運用されている民事訴訟の下において、如何なる場合に右にいう名誉毀損が成立するであろうかというのに一般の場合とは少しく思を別にして考えなければならない。すなわち、同主義の下においては訴訟の進行を円滑にしてその目的を正確に達するためには、当事者が訴訟手続において自由に忌憚のない主張をつくして、訴訟資料並びに証拠資料を裁判所に提出しその判断をまつことが許されるべきであつて、そのためにはまず攻撃防禦の自由が相当な重要度を以つて尊重されなければならず、従つて、訴訟において争われる権利又は事実関係成否を決する重要な争点に関し、攻撃防禦の必要上一方の当事者が他方の当事者について名誉を毀損するような主張または供述をしたとしても、その内容が真実である限りは不法行為としての名誉毀損の成立は否定されるべきであることは明であるが、それが当該訴訟において遂に真実としての挙証がなかつたからといつて反対に常に名誉毀損が成立するとはいい得ない。たまたま当該訴訟において限られた証拠資料が立証を尽し得なかつたに過ぎず、別に真実の立証をなし得ないとはいえないことがその第一の理由であり、第二には、もし、右の場合常に名誉毀損の成立を来すとすれば挙証の結果をおそれる余り自由な攻撃防禦をためらう者の出でることもないとはいえないからである。それでは如何なる限度で名誉毀損の成立を認めるかは講学上或いは立法上の真実義務の問題にも関連し、当事者のいわゆる真実義務を否定するような観点からこれを論断すべきではなく、一方当事者が当初から相手方当事者の名誉を害する意図で虚言を用いた場合、そのような意図がなくても著しく相手方当事者の名誉を害する内容の虚言を用いた場合には他の要件が満たされる限り名誉毀損が成立するものと解されるが、単に結果的に主張事実が真実であることの立証が得られず、しかもその主張、供述の内容が著しく相手方当事者の名誉を害する程のものでない場合は名誉毀損の成立は阻却されるべきものと解される。さらに附言すればたとえば相手方当事者の名誉を害するような主張があつても相手方においてこれを否定する限り、訴訟場裡においてこれを見聞する者はその内容の真実性についてはせいぜい半信半疑の程度といつても過言ではなく、それが遂に真実として証明されない場合はその結果を知る者の右疑は晴れ、却つて、主張当事者の人格にこそ影響の及ぶことこそあれ、相手方の名誉は保持され、残るのは右結果を知らない者及びその結果の現れるまでの間の疑惑であるが、これは著しく名誉に害のある内容でない限りは、前説明の攻撃防禦の自由の遵重に対比して、忍ぶ外はないものと思われる。

そして右のように結果において立証し得なかつたような無責任な主張、供述により訴訟が複雑化し、遅延したことによつて相手方の受ける損害は別箇に請求されて然るべきものと考える。

四、ひるがえつて、控訴人が山木孝子をつきとばし、山木節に頭から水を浴せかけた等の前記被控訴人の前記訴訟中における主張事実の真否は同訴訟における原告である野村の請求の成否に影響を及ぼす主な争点に関するものであることは明であるところ、同事実は、成立に争のない甲第七、一二号証及び原審における被控訴人本人尋問の結果中右を裏づける部分は、成立に争のない甲第二、三号証と対照すると信用し難く、本訴訟においてもこれを真実として認めるに足る証拠はない。しかしながら一方成立に争のない甲第二、三、七、一二号証及び原審における被控訴人本人尋問の結果と弁論の全趣旨を綜合すれば、控訴人と山木節一家とは家屋明渡に関する訴訟にからみ些細なことにも感情的対立を示し、本件も昭和二八年八月二〇日の早朝井戸端で山木節の三女孝子が靴を洗つていたのに対し、控訴人がそこは食物の器具を洗うところだから、他の流しで洗うよう注意を与えたことに端を発し、右節と控訴人との口論となり、当時節の長女民子と婚約中の被控訴人がたまたま山木宅に居あわせ、右の騒ぎにとびだしてきて、控訴人と言い争つた挙句、興奮のあまり手拳で控訴人を殴打したことが認められる。

してみれば、右のような事情の下においては前記損害賠償請求訴訟に際して被控訴人が前記のような主張をなしたことは被控訴人が故意に控訴人を中傷せんがために右のような行為にでたものとも認められず他にもその証拠はないし、さればといつて、被控訴人の右主張事実は全く根拠のない虚言につきると断じ去る程の積極的資料もない。次に前認定の諸事情、成立に争のない甲第九、一〇号証によつて認められる被控訴人の長年文部省に勤務した元官吏である経歴等を綜合して考察しても、被控訴人の本件にあらわれた程度の行為は著しく控訴人の名誉を害するものともいい得られず、これを全く根拠のない虚言ともいい得ない以上、前説明の理に照し、訴訟という特殊な場における争点に関するものであることに鑑み控訴人としては認容すべき範囲にとどまり、結局被控訴人に対し法律上名誉毀損の責任を負担させるに足る違法性はないものといわなければならない。

五、以上のような次第で控訴人の本訴請求はその余の点につき判断するまでもなく失当であつて、これと同趣旨に出た原判決は相当である。よつて本件控訴は理由がないからこれを棄却し、控訴費用の負担につき民事訴訟法第九五条第八九条を適用して主文の通り判決する。

(裁判官 畔上英治 園田治 高橋正憲)

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